浮世絵の作る過程はとても複雑で、長かった。一枚の絵を作るために、四人の統一的な努力が必要だった。すなわち、版元「はんもと」と絵師「えし」と彫師「ほりし」と摺師「すりし」の協調だった。ここで、彼等の役割を順に説明するつもりがある。
版元は全体的の事業の主催者で、幹事だった。まず、版元は絵師と連絡して、図案を求めた。それから、絵師は美濃紙「みのがみ」と言う薄い紙に、墨で最初の版下絵「はんしたえ」と言う下書きを描いて、版元に見せた。あるいは、絵師が自分の絵を出版したがる場合、版下絵を持って、版元の所へ行って、賛成を頼んだ。「下絵参照」 版元は容認したら、用事が進めた。賛成しなかったら、絵師はもう一度、新しい下書きを描き直した。 何回もやってみた場合もよくあった。そして、版元は目付の判子を勝ち得て見た。
次に、版元は好きな彫師を選んで、木版を求めた。彫師は版下絵を取って、表が板向くように板に付けて、絵が見えるようになるために、裏をなくしたり、油を付けたりした。絵の線がよく見られるようになった後、色々な刀や鑿を使って、要らない木をなくしに彫りた。「下の左手の絵の通り 」 その結果、絵の線が蜘蛛の巣のように他の物の上に残って「下の右手の写真の通り 」、絵師の原図は反故にした。
そこで、摺師の仕事が始まった。 彫りた木版から黒墨で模写を幾つか写した。それらは絵師に戻った。絵師は各模写で色を一つずつ画した。例えば、一枚の模写で赤にしたい全部の所だけ画した。しかし、色の数は絵師が決めるものではなくて、版元の決だった。その後、彫師は各色ため、箇々木版を彫りた。そして、摺師は一枚の紙で全部の木版からカラフルの浮世絵を刷りて見て、必要ならば、正誤しに、結果を絵師に見させた。
せめて、摺師は真面目に働くようになった。最初に、紙が何時でも同じ所に着くために、各木版で見当直し「けんとうなおし」をした。見当と言うのは、色の所の間違えることが防ぐ、特別なサインである。まず、木槌「きずち」と共に見当鑿「けんとうのみ」を使いながら、板の下の右手の角で鈎「かぎ」と言う、〃__|〃の形のサインを作った。それから、板の下の中で引付「ひきつけ」と言う、〃__〃の形で、紙の下の端を指す見当を直した。「下図参照」
後程、摺師は丸刷毛「まるばけ」をつかって、染料「せんりょう」と糊「のり」を木版につけた。そして、見当に注意して、湿りた紙をきっかり置きて、その上で当て紙「あてがみ」と言う、防護紙を積もって、馬棟 「ばれん」できちんと圧した。「下絵参照」一枚の紙を使いながら、各色の木版で同じ過程を繰り返した。彫師とも摺師とも、自分で働くことが出来る前に、若い時、十年間ぐらい腕が上がるため、稽古しなければならなかったほど難しい技術であった。
最後に、出来上がった浮世絵は絵草子屋 「えぞうしや」と言う、特別な店で売りた。「下絵の通り」
出典:
- Alberowa Zofia, Sztuka japońska w zbiorach polskich, WAiF, Warszawa 1987
- Baldwin Katie, Japanese Woodblock Printing, Philadelphia Print Collaborative, Philadelphia 2005
- Tokuriki Tomikichiro, Wood-block printing, Hokuisha Publishing Co., Osaka 1984
- Tadashi Kobayashi, Ukiyo-e. An Introduction to Japanese Woodblock Prints, Kodansha International Ltd., Japan 1992
- 菊地貞夫, 浮世絵, 保育社,大阪, 1990年
- Mihara Shigeyoshi, Ukiyoe. Some Aspects of Japanese Classical Picture Prints [in:] MONUMENTA NIPPONICA, Vol. 6, No. 1/2, Sophia University 1943
- 東京国立博物館やハンブルク博物館や大英博物館などにある喜多川歌麿の江戸名物錦画耕作